御祭神・由緒

御祭神

建御名方命(たけみなかたのみこと)

古来「開拓と武勇」のご神徳があります。人生の岐路に立ったときや、新しいことに挑戦するときにご祈願をしますと、人生を開拓し、運を引き寄せる力をいただけます。

 

由緒

創立の子細は不明ですが、遠く文亀(ぶんき)の頃(1501年から1504年)には、すでに鎮座していたと思われます。時は戦国時代。日本海の砂丘の麓に落ち武者七氏族が寄り集まって開拓を始めたので、このあたりを「寄居村」と称したとされています。新潟市の中枢部にまだ「新潟」の地名が起こる前のことです。当社は、半農半漁であった寄居村の鎮守として村の開拓とともに創立され、現在も地域の守り神として人々から信仰されています。最も古い資料として、延宝七年(1679年)に江戸幕府長岡藩主三代目・牧野忠辰侯の『神田寄進状』に、「社領の寄附あり」と残っています。大正十五年(1926年)に村社格を得ました。

 

「寄居諏訪神社の由緒と遍歴」

  (前宮司登石昇の調査記録による)

 

その土地その村の形成には鎮守様産土うぶすな様として神社の存立が表裏一体的になるのは古来からの日本民族の社会的な慣習である。

ここ寄居村は500年以上前の戦国時代の中頃、あちこちから角田の浜に落ち合った七氏族が落ち着く先を求めて北へ北へとゆくに信濃川の川口に遮られてしまった。当時は信濃川と阿賀野川が合流して日本海に注いでいた状況であり、どんづまりの思いをしたのであろう。砂丘の麓には先住者なくここを本拠にした。

当時は信濃川の川洲の西側の支流が現在の西堀であった由、今の寄居町の砂丘の麓に村落を構えつつ農耕開拓そして海に漁業すなどりして形成した。お互い知らぬもの同士が寄りあつまったことから『寄居村』と通称したという。

村として落ち着けば鎮守神社を設けるは当然のこと、開拓武の御神徳高き『諏訪神社』を砂丘の麓に鎮座した。一番古い証拠文献は長岡藩三代目忠辰ただとき落主より寄居諏訪神社に送られた『神田寄進状』が新潟市資料館に保存されている。当時の記録に寄居村新田開発ありその功績の御礼に寄進した由。

当時の奉行の功績をとどめたのが寄居町の小字に善四郎新田なる二百戸に余る同番地が残っている。

その後信濃川土砂の形勢につれて新しい住民が現在の日和浜砂丘以北の麓から信濃川河口に至る間に住民が居着き新潟村が川沿いに開け、江戸期川口港としての利便により急速に町並み化したために区画整理の一環として墓地整理を企画、隣接の寄居村の地所を上知して広く天下に寺院の公募をしたという。現在の西堀通り通称寺町のところでこれも記録あり。

そして寄居村開村の子孫の現在は二十五代目六代目である、これらの御墓は当時上知された所有地(田畑であろう)に移転開山した菩提寺に所属している。仏教以外の葬儀を認めない幕府法度の時代のことである。

江戸末期に幕府直轄地になった新潟町に代官所を設けるに余地無く、寄居村の一角(旧三越と旧市役所)に設けたのであった。一衣帯水の両村は一つは港町商工の町として発展、一つは半農半漁の寒村として経過して幕末期開港の一つになり、明治御一新以降寄居村も急速に町並化したという。

幕末期の代官屋敷とこれら役宅を構える地所にされ、御一新なりては新政府の諸官衛や宮員の社宅そして軍隊営所に各種学校などの敷地に開発されたという。ちなみに軍隊は一・二年で新発田へ移ったのである。

諏訪神社は区画整理があるごとに境内がせばめられた。営所通りに面する隣屋敷の老婆が「私がここへ嫁いだ時にここは神屋敷だったので汚水をまかないで溝に流すようにと注意されたものです」と話されていた。

寄居村は南の関屋との境は関屋田町松波町であり、蔵所堀以西、西堀以西、北は田中町日和山が境であった。新潟と沼垂との水争い訴訟の(港の権利) 記録には新潟は草高九百石の寄居村を抱えて云々との書状が残っているという。

明治十二年に寄居村は新潟町に合併された。ここ旭町の地名の起こりは砂丘の麓に裁判所長公舎や官員たちの宿舎を始め医学校や師範学校の敷地として開発し、朝日が当たる絶好のところであることから通称旭町通りとなりたる由。

明治四十一年新潟大火で被災した当時の諏訪神社の社殿は四間、五間にして回廊つきの壮麗なる構えで総瓦葺であったという。  

この明治大火災に氏子一帯も被災したために復興が遅々として進まず請負業布施組から境内の焼け残り樹木提供の見返りに、三間、三間の社殿を建築寄進ありたる。現在の拝殿である。

大正時代から昭和時代初期に御本殿・幣殿、神楽殿、社務所、手水舎と体裁を整えて、当時の『村社』格を維持したるものである。

ここに逸話一つ。この明治大火は台風下現在の古町四番町に出火して、かじ小路を海岸方面に押し県庁々舎(東中通の県農協連の所)をなめて丘上の師範学校を焼き、風向き変わりてここ諏訪神社から寄居町、新潟の街並を総舐めにして萬代橋をも消失したという。この火災中に氏子の一人が諏訪神社の御神体を運び出して行形亭いきなりやに預けたという

県庁は、東中通りの上手かみtrに庁舎を移転新築した。現在の市役所のところである。萬代橋は現在のごとくに新設した。

 昭和三〇年代初頭、寄居諏訪神社は境内は七百坪余りあり素晴らしい佇まい。まだ電話なく水道なく井戸水の生活であったが水質素晴らしくそれは現在でも重宝している。

海亀の甲羅トリミング.jpg 

昭和初期に寄居村の漁師より日本海であがった海亀の甲羅が寄進され社殿に祀られている

 

ご利益

入学試験や就職試験の合格祈願/仕事を始める時の起業成功祈願/恋活婚活にも恋愛成就祈願/厄年の厄払いと開運祈願